なんだかんだYoutubeが好きなわたしですが、最近はもっぱらストリートダンス系の動画や極楽とんぼの山本さんのけいちゃんチャンネルを見ています。
そんな時に、リアル・アキバ・ボーイズがダンスをしていた楽曲が「うっせぇわ」でした。
最初に聞いたときは、メッセージが社会に対する痛烈なメッセージでいいなぁと思いました。
なんか冒頭の「ちっちゃいころから優等生~」が「ちっちゃいころから悪ガキで~」のチェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」のオマージュなのかなぁとも思うし懐かしい感じ。
パンクやヒップホップが好きなので、こういう日常の言葉を使いながらのメッセージは好きです。
社会生活の中での痛みや政治への批判を歌にして表現するという行為は世界各地で行われていることです。
そして、「うっせぇわ」のサビを聞いていて、曲調は違うけど、カナダの(ポップな)パンクバンドであるSimple PlanのShut Up!を思い出しました。
難しい言葉や学術的な言葉でなく、日常の言葉で発信することは悪いことではないと思う。
逆を言えば、普段、「うっせえ」とか使っていない人にとっては共感されにくいのかもと思う。
一方で違和感は、作詞が歌を歌っているAdoさんではなく、syudouさんという方がしているということ。
Adoさんは歌詞に共感して歌っているのかもしれないし、必ずしも、作詞と歌い手が一緒でなければならないとは思わないけれども、作詞は男性のsyudouさんが担当し、社会に対する痛烈なメッセージ(特にお酌など女性側での視点ともいえる部分もあるもの)を10代の女性であるAdoさんが歌っているという構造自体が、この歌詞で記載されているジェンダーとかかったるい日本にある仕組みと同じような構造にも見えてしまう。
乃木坂46のサイレント・マジョリティーでも似ているような感覚をもったのを思い出しました。
カバー曲や作詞と歌い手が違うことが悪いとは思っていません。
例えば、中島みゆき作詞のファイトも、様々な人にカバーされていて、良い作品も本当に多い。
でも、中島みゆき本人の歌って、やっぱり歌詞に込めたものとか私はより感じられていいなぁと思う。
何が言いたいかと言えば、syudouさんの声でのうっせぇわも聞きたいなと思ったことと、Adoさん自身の話も聞いてみたいなぁと思ったということ。
そんな時に、リアル・アキバ・ボーイズがダンスをしていた楽曲が「うっせぇわ」でした。
最初に聞いたときは、メッセージが社会に対する痛烈なメッセージでいいなぁと思いました。
なんか冒頭の「ちっちゃいころから優等生~」が「ちっちゃいころから悪ガキで~」のチェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」のオマージュなのかなぁとも思うし懐かしい感じ。
パンクやヒップホップが好きなので、こういう日常の言葉を使いながらのメッセージは好きです。
社会生活の中での痛みや政治への批判を歌にして表現するという行為は世界各地で行われていることです。
そして、「うっせぇわ」のサビを聞いていて、曲調は違うけど、カナダの(ポップな)パンクバンドであるSimple PlanのShut Up!を思い出しました。
難しい言葉や学術的な言葉でなく、日常の言葉で発信することは悪いことではないと思う。
逆を言えば、普段、「うっせえ」とか使っていない人にとっては共感されにくいのかもと思う。
一方で違和感は、作詞が歌を歌っているAdoさんではなく、syudouさんという方がしているということ。
Adoさんは歌詞に共感して歌っているのかもしれないし、必ずしも、作詞と歌い手が一緒でなければならないとは思わないけれども、作詞は男性のsyudouさんが担当し、社会に対する痛烈なメッセージ(特にお酌など女性側での視点ともいえる部分もあるもの)を10代の女性であるAdoさんが歌っているという構造自体が、この歌詞で記載されているジェンダーとかかったるい日本にある仕組みと同じような構造にも見えてしまう。
乃木坂46のサイレント・マジョリティーでも似ているような感覚をもったのを思い出しました。
カバー曲や作詞と歌い手が違うことが悪いとは思っていません。
例えば、中島みゆき作詞のファイトも、様々な人にカバーされていて、良い作品も本当に多い。
でも、中島みゆき本人の歌って、やっぱり歌詞に込めたものとか私はより感じられていいなぁと思う。
何が言いたいかと言えば、syudouさんの声でのうっせぇわも聞きたいなと思ったことと、Adoさん自身の話も聞いてみたいなぁと思ったということ。
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