国連が定めた2030年までの開発目標である「持続可能な開発目標」(SDGs)。
その謳い文句は「誰一人取り残さない」(Leave no one behind)です。

2015年までの開発目標であるMDGs(ミレニアム開発目標)と比べれば、その策定経緯も多くの人々の声を聴こうという姿勢があったと私は思っていますし、「抜けている分野」や「文言としての強弱」としての課題はあるものの、こういった合意ができたこと自体は一定の評価をしてよいと思っています。

しかし、その一方で言葉が作られると一人歩きをし、それがもった意味合い以上に万能薬のように使われてしまうこともあります。例えば、「誰一人取り残さない」という言葉は、取り残される側の言葉ではなく、取り残す側(権力や権威をもっている側)の視点で作られているという認識を持つ必要があります。
私は、「誰一人取り残さない」という言葉の良し悪しではなく、誰の言葉なのかを理解し、それが万能なものではないという認識、それが使われている背景をしっかりと意識することが重要だと思います。

私たちは言葉を使ってコミュニケーションをとることが多いですが、言葉の背景について無意識に使ってしまうことがあります。

先日、言論プラットフォーム アゴラに「NPO・NGO/コレクティブインパクトに関し、政府へ申し入れ」という記事がアップされました。内容としては、「NGO・NPOの戦略的あり方を検討する会」が提言として、NGO・NPOのあり方について、「コレクティブインパクトによる社会課題解決の流れを加速する」ように、茂木国務大臣、菅官房長官に申し入れを行ったことに関する記事ですが、従来政府が担ってきた役割をNPOやNGOに担ってもらうという文脈の中で以下のような一説がありました。

実際欧米では一流大学の出身者がこうしたNGO・NPOのセクターに入ることはかなり一般的です。財務的な基盤もかなり強く、一般企業を上回るような報酬を受け取るケースもかなり多くなっています。一方、日本においてはそのような状況には程遠く、人材や財務面でのキャッチアップが必要です。
(出典元 http://agora-web.jp/archives/2033028.html [最終アクセス2018年7月8日])

(この記事にはその他突っ込みたいところはありますが、)この文章の前提には、一流大学を卒業する人材が社会を変えることができるという認識があるように思いました。
既存の社会が結局はエリートによって進められるとしても、それらを自戒したうえで「誰一人取り残さない」という理念を持った際に、一流大学の出身者にフォーカスを充てるということはどうなんでしょう。
むしろ、多様な人材を受けいられることと共に、 所得に関係なく高等教育を受けられるようになる機会の提供を促していくことが重要なのではと思いました。

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