(以前に他のブログに記載したものを移設した記事です。)


2015年2月25日(水)から27日(金)まで東京で開催された学生ボランティアと支援者が集う全国研究交流会に参加してきました。ちょうど前の週にロサンゼルスで開催された全米最大規模の社会問題にかかわる学生のイベントに参加していたので、その対比も見れてよかったです。(体力的にはやや負担だったけれど。)
*昨年に引き続き2回目の参加となります。
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(Photo by Yoichi SUZUKI)


ボランティアのコアバリュー
25日午後からは全体セッションとして、パネルディスカッションが開催されました。
地域を中心に活動する3名の学生パネリストがそれぞれの活動について話をした。その後、学生と支援者に分かれて交流セッションが行われました。
私は支援者のセッションに参加し、財団や大学教職員などの方とそれぞれの活動紹介とともに、ボランティアの目的についての話し合いを行いました。また、2日目の分科会セッションでは、あえて「国際」ではなく「地域おこし」のセッションに参加し、参加された学生の方々のお話を伺ってきました。
これらのセッションの中で、日本社会におけるボランティア活動のコアバリューが何かを考えたので、紹介します。 
StudentsVolunteerForum2015_2
(Photo by Yoichi SUZUKI)


ヴィジョンが見いだされにくい?
日本社会では「正義」などという概念が「主張する人によって異なる」というような認識が強く、諸外国のように「社会正義」や「人権」の追求というボランティアをするうえでの上位概念(目指すべきイメージ)がなく、ボランティアを行う副次的な価値観である「人と人とのつながり」「参加する学生の健全な育成」「楽しむこと」などが目的のように語られやすいのではないかと感じました。
また、アメリカで行われた同様のイベントとの決定的な違いとして、「アドボカシー」という選択肢がボランティアの具体的な活動の中では語られていないことも日本社会の特徴のように感じました。

子ども時代の原体験に変わるもの
圧倒的な上位概念がない日本社会の中で、それでは学生たちはどのように活動に参加していくのでしょうか?
子ども時代に、何かしら他者との関係や接点があって、それらが原体験や問題意識となって参加する人もいるようです。特に海外支援にかかわる学生に話を聞くと、子ども時代の経験が非常に強いように感じます。
それでは、子ども時代に強烈な原体験のない人にはどうアプローチをすればいいのでしょうか?
1日目の学生パネルディスカッションでパネリストの震災復興と町おこしにかかわるからくわ丸で活動をしている根岸さんが話していた内容にそのヒントがあるように思います。
彼女はもともとボランティアに関心はなかったようで、震災後、ふと将来母親になった時に子どもに何かしてたと伝えたいと思い、学内で機会があって参加したとのことです。ただ、彼女はその後、大学を休学し、1年間、東北の復興に尽力し、卒業後もその土地に移り住み、NGOに就職するまでに変わっていきます。
はたして何が彼女を変えたのでしょうか?
根岸さんを変えたものを知りたくて、質疑応答の機会に学生の質問者を押しのけて質問をしました。「なぜ他人事だったことが自分事になったのか?」という質問をしたことろ、復興のためにその土地に入って、地域の人と仲良くなった後に、被災した漁師のおじさんから涙を流しながら震災が与えたコミュニティへの影響やその人の生きざまを話されたときに、思いが強くなったと言っていました。

以前のブログの記事にも記載しましたが、これは、個々が対話し、他者の出来事に対して共感に基づいてつながれる場の存在のことだと私は感じました。
ロサンゼルスでの全米最大規模の社会問題に関心のある学生が集まるイベントでも社会問題におけるStoryTellingの重要性を感じたばかりだったので、日米の場所を超えても人間が行動するうえで必要な要素としてかなり納得できました。


地域おこしに見られる日本社会の課題
人が集まり、世代や地域を超えて、真剣に対話する。そうした環境は日本社会では通常手に入らないものなのかもしれません。
2日目に行われた分科会セッションでは、今年は「地域おこし」のセッションに参加しました。これまで、海外支援関係のセッションばかり選んできましたが、もともと「限界集落」の問題は関心がありましたし、それ以上にコミュニティに関する認識や問題意識を持っている人が多そうだったこと、私が現在仕事で地域のコミュニティづくりとムーブメントビルディングをリンクさせていること、その背景としての共感性を育む場としてのコミュニティへの学生たちのニーズがあるんじゃないかと思っての参加でした。

2日目のセッションでは、地域おこしに携わるNPOの方をゲストスピーカーとしてお呼びし、さまざまなお話をお聞きしました。JUON Network山村塾の方のお話を聞いて、60人近い分科会参加者が地域おこしボランティアの強みや魅力を考えるという内容でした。
学生の中ででていた意見で、「つながり」などの関係性についての発言が非常に多かったです。また、山村塾の事例紹介の中で、これまで長期のワークキャンプや都市部の方々の受け入れをされてきたそうで、地元の高齢者と訪れた国内外の若者の交流があったそうです。そして、数年前に大雨の影響を受けた際に、数日後に災害ボランティアの募集をfacebookで行ったところ、過去のワークキャンプ参加者などを中心にすぐに40名近い方が駆けつけたそうです。
これはまさに、他人事が自分事になる事例の典型ともいえるのではないかと思いました。人と人が関係性をつくり、共感性が育まれた中で、その土地での出来事に関与したいという気持ちが大きくなったのだと思います。
また、このセッションを通じて、こうした対話空間を求める学生の多さは、逆を言えば、日本の日常生活ではこうした世代を超えた対話空間がなく、そうした中で、地域おこしでそうした環境に触れたことで、そうした機会の価値を認識したからではないのかと思いました。


使命感は嫌われる?
イベントを通じて感じたことの中に「使命感」に対してネガティブなイメージを持っている人が少なからずいるように思いました。ここからは全くの想像ですが、ボランティアの現場には非常に強すぎる問題意識を持ち、時として、現場の人の声よりも己の意識にそって、相手に無理強いをする人もいるのではないかと思い、そうした「身勝手な使命感」に触れたことがある人は「使命感」という言葉に拒否反応があらわれてしまうのではないかと思います。


お金以外の帰結としてのアプローチの不在
日本社会の独特の特徴として、ロサンゼルスのイベントとの大きな違いとしてもう一つ感じたのが、お金以外の帰結としてのアプローチの不在でした。地域おこしの分科会で、日常生活からできることしていこうという話になった時に、地域おこしの現場を金銭的に支援すること以外のアプローチがなかなか出てきませんでした。
アメリカであれば、「アドボカシー」(啓発や行政などへの働きかけ)がまずはでてくるのではないかと思います。そこにはボランティアという行為が少なからず目的化してしまったいるからではないのかとも思いました。(問題解決を考える上で、根本原因に対して政策や措置による解決を促すアドボカシーは非常に有用です。)

お金のあるなしが活動に参加できることとできないこと分断してしまわなようになってもらいたいものです。


一歩ずつ関係を紡ぐ
今回のイベントで改めて重要性を感じたことは人間にとっての対話の重要性。そして、それをつくることは一つ一つの丁寧な紡ぐ作業だっていうこと。
確かに行うべきことはたくさんあるけれども、「社会正義」概念を広めること、「対話スペース」を各地につくっていくこと、これら一つ一つの活動を進めていきたいと思っています。


大事にしていること
さて、今回のイベントも分科会は支援者ではなく、学生ボランティア向けの分科会に参加しました。なので、私の周りはゲスト講師以外7-10歳ほど年下の若者たちでした。
ただ、いつも思うのですが、社会を変えるという際に、社会は人々の集合体であり、そこに生きる人々が何を感じて、社会をどう認識して生きているのかを知らなければならないのではないかと思います。そういう考えもあって、学生の中に入り、いろいろと話を聞きました。
想定外の認識なども聞き取れて、非常に良かったです。


もっと大切にしたいこと
2日目夕方にアクション・マーケットという企画があり、大学やNPOなどがブース出展しました。
今回は、仕事での参加だったのですが、なんと2名の仕事先に学生メンバーが出展活動の手伝いに来てくれました。ロサンゼルスのイベントでも、アメリカ人の学生メンバーが駆け付けていたので、少し、その風景を思い出しました。
ただ、こうして一緒に汗をかきながら行動することって思いやメッセージを内外問わず伝える上で非常に重要だと感じました。


おまけ
1日目の学生パネリストの根岸さんは、最終的には地域おこしの中で「自治」を獲得したいと、今後の展望を話していました。おそらく彼女のいう「自治」という意味は、その土地に住む人々が自分の考えで生き方を選択するという認識と行動をもつことで、英語ではActive Citizenshipというものではないかと感じました。